―――ばちん、最低!
 そんな音が聞こえてきそうだと思った。



 空調の効いたカフェのガラス越しに繰り広げられた光景は、なんとも面白いものだった。
 穏やかな室内とは対照的に、不穏な雰囲気。所謂、修羅場と言われるもの。平手打ち、走り去る女、取り残される男。
 こんな三流ドラマみたいな出来事を、現実のものとしてこの目で見る日が来るとは思わなかった。所詮ドラマ、と思っていたけれど意外と馬鹿にならないものなのね。
 なんて、妙な感動と共に若干ぬるくなった紅茶を口に運ぶ。
 しっかしあの頬、痛いだろうな。平手打ちをされた経験なんて一度もないから、なんとも言えないけども。
 口の中でも切ってしまったのか、未だ口元を押さえて俯く彼をよく見てみると、どうやら着ているのは制服らしい。高校生くらいに見える。
 髪の色は…あーなんだ、個性的、とでも言っておけばいいのだろうか。銀髪なんて初めて見た。いるんだ、実際。
 って、あれ、あの子って高校生なんだよね?銀髪をよしとするだなんて、随分寛容な学校もあるんだなあ。
 と、そんなどうでもいいことを思いながら紅茶を片手に少年を眺めていると、不意に顔を上げた彼と目があった。反射的に視線を反らし、紅茶に口をつける。
 ―――やっば、見てたのばれたか。
 なんだか気まずくなって、早くどこかに行ってくれないかな、そう思った。
 が、その思いは届かなかったようだ。
 こんこんとガラスを叩く音がし、なんだと思って顔を上げると、目の前には例の銀髪少年。目が合うと、にやり、と嫌な笑みを浮かべた。
「おねーさん、見ちょったじゃろー」
「なにを、」
「シュ、ラ、バ」
 そう笑いながら自分の頬を指さした。修羅場、なんて笑いながら言うことでもないと思うのだけど。
 もしかしたら、よくあることなのだろうか。だとしたらなんて高校生。あれですか、プレイボーイってやつ。
 呆れてため息を吐き、たまたま目に入ったんだよ、と言うと、へえ、とたいして興味もなさげな返事が返ってきた。興味ないなら聞くなっての。
 そう心の中で悪態をつきつつ、いつまでいるつもりだろう、と更にため息を吐きたくなった。
 さっきまで外にいた少年は、今は何故か隣に座って、何故か私と会話をしている。一体、何故。
 まあ、それはすごく疑問だけれども、それよりも、向こうに帰る気がないのなら、私が帰ってもいいだろうか。折角のひとりの時間を邪魔されてしまったのだから、もう早く帰りたい。
 そう思い始めたら話は早い。どうやって席を立とうか、うまく機会を作れるようにと言葉を紡ぐ。
「に、しても痛そうだね、それ」
「腫れとる?」
「結構赤くなってる。冷やした方がいいんじゃない?」
「そうじゃのう…」
「家にでも帰って、早く冷やすといいと思うよ」
 そう言って残りの紅茶を流し込んで立ち上がる。荷物を肩にかけて、忘れ物をチェックして。大丈夫なことを確認すると、空のカップを持って、それじゃあお先に、と少年に声をかけて出口の方に体を向けた。
 ―――よし、うまくいった。
 ちょっと嬉しくなって、思考は既に別のところ。
 だが、ご機嫌に数歩歩いたところで、なあ、という少年の呼び止める声で足を止める羽目になった。



 今思えば、そこで振り返ったのが、間違いだったのかもしれない。
「なあ、おねーさん」
「…なんでしょう」
「泊めて?」
 そう言ってにっこり笑った目の前の少年。
 くらり、と目眩がした。
 一体何を言い出すんだろう、この子は。話の流れもいまいちわからない。
 私は早く帰れって言ったんだよ。どうして、泊めてに繋がるの。

「…だめ?」
 さっきの発言に固まっていた私に、追い討ちをかけるように一言。さらに首を傾げるというおまけ付きで。
 それを、一瞬でも可愛いと思ってしまった自分が憎い。首を傾げるのにつられて、揺れた銀色の尻尾が悪戯に跳ねたように見えたのは、きっと気のせいではなかった、と思う。
(081204)



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