わからないわからない。
わかりたく、ない。
「ほう。珍しいこともあるものだ」
「…なにが」
そう聞き返すとあたしの左目の下を人差し指でつついた。鬱陶しくて、柳の手をぱしりと払い落とす。
うっすらとあたしの目の下に存在している、クマ。
気にしてたのにどうして言うかな。うっすらとできていただけだったから、気付かれないと思っていたのに。閉じてるくせにどうして見えるんだ。
じとっと睨み付けると、僅かに上がった柳の唇の端が、言外にあたしを面白いと言っていた。
「お前でもクマができるのだな、と思ってな」
「あんた、あたしのことなんだと思ってんの」
「はさ」
「意味わかんないよ」
不機嫌に眉間に皺を寄せると更に笑われた。
意外と柳は笑い上戸だと思う。本当に失礼な奴。
「まあ、なんだ」
「なに」
「相談くらいなら乗ってやると言っているんだ」
「…へえ、そんなこと言ってたの」
「そのクマ、だからな?」
そう言って、席を立った。
笑ってはいたものの、話せば真剣に聞いてくれるのだろう。
―――もしかしたら柳は知っているのかもしれない。言わないからわからないけど。
人の波に紛れていく柳の背中に向かって、小さくありがと、と言った声は届いたかどうかはわからない。
校舎から出てしばらく歩いていると軽い目眩に襲われる。たまたま目に入ったベンチにふらふらと近付いていった。
貧血か?やはり寝不足なのかもしれない。
背もたれに背中を預けると少し楽になった。
―――不意に、柔らかく女の子の名字を呼ぶあいつの声を思い出す。
柳生は決して誰かを名前で呼んだりしない。家族やその他例外はあるけれど、それは周知の事実で。
でも、あの女の子は、この学校にその例外がいることを知ってるのだろうか。
―――知らないだろうな、あいつに浮いた話なんてないから。
ふふふ、ねえ、知ってる?あたしと柳生は一緒に寝るようなオトモダチなんだよ?
そう言ったらあの子はどんな顔をするのだろうか。考えただけでも笑えてくる。
―――あの子の表情にも、自分の思考にも。
そんなことを考えながら、かさりと音を立てて落ちる葉っぱをぼうっとしながら見ていた。随分秋も深まってきた。気温も下がってきて、そろそろセーターが欲しいかもしれない。
指先が冷たくて、動きが鈍い。メールの返信を放棄したのはついさっきのこと。
寒いなあ、と思いつつ、返信画面で止まったままの手元の携帯に視線を落とした。
「さん?」
「、っ!」
いきなり呼ばれた自分の名前に盛大に驚いてしまった。ばくばくと心臓が鳴っている。危うく携帯を落としてしまうところだった。
顔を上げると少し離れたところに柳生がいるのが見えた。目が合うと柔らかく笑ってゆっくりと歩み寄ってくる。
「びっくり、したー」
「すみません、驚かせてしまいましたね」
「ぼーっとしてた。何。どしたの」
「いえ、こんな時間なのに残っていらっしゃるのを見つけたもので。いつもならもうお帰りでしょう?」
そう言って柳生は苦笑した。
言われてはて?と首を傾げたが、携帯の時計を見て、納得。確かにもう家に着いているような時間だった。だから周りも暗いのね、なんて考えるあたしの頭はまだ働いていないのかもしれない。
「送ります」
「いっつもいいって言ってるのに」
「今日は、駄目です」
「えー」
理由を聞けば、今日はぼんやりしていてなんだか危なっかしいから、だと言う。
別に、放っておいてくれればいいのに。ただのオトモダチでしょ。
柳生的には放っておけないのかもしれないけれど。
すとん、と機嫌が急降下した気がした。
荷物を取りに行くと踵を返そうとしたのを呼び止めて手招きをする。不思議そうな顔をして戻ってきた柳生のネクタイを思いっきり引っ張り、顔を近付けた。
「、さん?」
「違うでしょ?」
「…さん、」
「ねえ、柳生」
「は、はい」
「ちゅー。してよ」
見上げるあたしとのけ反るように身体を引く柳生。
至近距離で眼鏡越しに目が合った。紳士とは言われているけど、優しげな印象に反して実は結構鋭い目をしてたりするのを、あたしは知っている。
今はその目が丸く見開かれていて、鋭い印象なんて全くないけれど。
「え、ここ学校ですよ」
そう戸惑っているのを無視して、急かすようにネクタイを引っ張る。聞く耳を持たないあたしに諦めたのか、仕方ありませんね、と自分の身体を支えていた力を抜いた。
右手の親指で数回、あたしの目の下を撫でる。そして、そのまま柳生のそれと重なった。
ゆっくりと歩み寄る、笑顔のエゴイスト
(081020)
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