―――どうしよう。
 ぎゅっと胸に抱え込んだ資料に力を込める。
 少しは探している時間を考慮してはくれるとは思うけども。いい加減戻らないと会長に怒られてしまう。もう資料室に入ってから結構な時間が経っている。
 しかし、それを阻むのが棚を挟んだ向こう側で繰り広げられている光景。
 何ってナニだ。制服を乱して事に勤しんでいる男と女。
 何処で何をしようがそちらさんの勝手だが、此処はやめてほしかった。運の悪いことに出口はひとつしかない。
 そもそもどうしてこんなマニアックな場所を知っているのかが疑問である。この資料室は生徒会の所有物だし、いつもは鍵がかかっているんだ。
 …一応言ってはおくけれど、断じて覗きではない。
 こんなの、不可抗力以外の何物でもない。先にこの部屋にいたのは他でもない、私なのだから。
 なのに、私が奥に探しに行ったタイミングを見計らったように、事を始めてしまったふたり。最初こそドキドキはしたものの、今は焦りに少しの呆れが混じり、いい加減にしてくれという気持ちが大半を占める。
 先程から否応なしに耳から入ってくる諸々の音。絶えず漏れそうになる溜め息をひたすら噛み殺している私の努力を少しでも汲んで欲しい。



 しばらくすると、女の一際甲高い声を最後に物音が止んだ。聞こえてくるのは荒い息づかいのみ。
 ―――やっと終わったか。
 ようやく解放されると思うと、少し気分が軽くなった。
 衣擦れの音やら、またねやら、ひとしきり音がやんで、再び資料室に静寂が戻る。ふうと一息入れて立ち上がり、スカートの埃を払った。
 彼らが使用していたであろう長机は調度入り口の正面にあったと記憶している。確か資料整理の際に使った事があったようななかったような…まあどちらでもいいけど、今度資料整理に来ても絶対あの長机だけは使いたくないなあ。
 そう思いつつ、なるべく視界に入れないようにドアへ向かう。

「覗き、なんて随分ええ趣味しとるんやね?」
 後方から聞こえるはずのない声が響く。
 この部屋には私しかいないはず。ばっと振り返って声の元をたどると、乱れた制服もそこそこに、忍足が気だるげに棚に寄りかかってこちらを眺めていた。
 逆光で表情はよくわからない。
 さっき相手と一緒に部屋を出ていったとばかり思っていたのに。彼の発言から察するに、私がここにいたことを知っていてやってたらしい。
 いい趣味をしているのはそっちの方だ。不愉快すぎる。
 あんなもの見せられて――直接は見てないけど――そのせいで私は会長に怒られる羽目になるのだろうから。迷惑もいいところだ。
「出るに、出られなかったんです」
「言うてくれればよかったやん」
「…一応、空気は読める人間だとは思ってるんで」
 最中の人間に声をかけるだなんて非常識も甚だしい。天才と変人は紙一重というけれど、これはただの変態なんじゃないの。
 ―――なんて。
 これ以上の会話は無用だ。無駄な時間を過ごしてしまった。
時間だって押してる。さっさと部活に行きたくて、美しい顔を不機嫌に歪めながら外でも眺めているであろう彼が頭に浮かぶ。
 早くこの場から立ち去りたい。
「失礼しますね」
そう言って、踵を返しつドアに手をかけようとした。
「ちょい待ち」
 とん、と静かな音をたてて顔の右側に逞しい腕が置かれて、同時にふわりと甘ったるい、明らかに女物と思われる香りが漂った。
「つれへんな」
 背後で聞こえる声。
 いつの間に移動したのか、予想外の近さに驚いた。
 そんなのお構い無しに、そのまま耳に口を寄せてくる忍足。ふうと耳にあたる吐息の熱さに体が動かなくなった。
「自分、“跡部の犬”やろ?」
「だったら、なん、ですか、」
「くくく。大事に、大事に、されてんやろなあ?あの跡部にはしては珍しいわ」
 何が面白いのか、クツクツ笑う忍足に内心首をかしげつつ、この場をどう切り抜けるか、いまいち回りきらない思考回路で考える。
 背後はとられてはいるものの、退路は断たれてはいない。ドアは目の前。塞がれてるといってもドアは引き戸。引いて開ければ済む話、なのだが。

「なあ?聞いとる?」

 耳からダイレクトに入ってくる艶のある低音がそれを邪魔する。
 立っているのがやっとだ。唯一の逃げ道を睨むことしか出来ない。
あまりの無力さに泣きたくなる。まあ泣くだなんて、そんなヘマはしない、けど。
 忍足はといえば、私が抵抗しない、いや、できないのいいことに、耳に舌を這わせ始める。耳元で嫌な粘着音がする。
 思わず出てしまったひっ、という声に気分をよくしたのか、吐息だけで笑い、そのままつつつと首筋をたどって下におりていった。
 そして、ある箇所に来たところで動きを止める。
 強めに吸われて軽いリップ音の後、再び執拗にそこを這う奴の舌。
 何をされたかなんて、それがわからない程子どもでもない。身体に走るのは言い様のない嫌悪感。
 ―――気持ち、わるい。



 不意に、ポケットでバイブレーションが鳴った。
 それに全身を支配していた硬直から解放される。勢いよくドアを開けると、がくがくともつれる足を無理矢理動かして生徒会室まで走った。
 部屋の前までくると胸に手をあてて呼吸を整える。
 ―――大丈夫大丈夫。落ち着け。しっかりしろ。
 そう自分に言い聞かせてノックをし、ドアを開けた。
「遅い」
 開口一番に発された文句にほっとしたのはここだけの話。
 麗しの会長様は、予想通りに不機嫌に顔を歪めていらっしゃった。
きっとさっきの着信も会長だろう。
 あれのお陰で助かったんだ、今なら会長の嫌味も…いややっぱり遠慮したい。そこまで図太くはない。
「…すみません」
「まあいい。これをまとめておけ。部活に顔を出してくる」
 どんと目の前に置かれた資料に、今日中と言われなかっただけマシか、と溜め息を吐く。
「それと、」
「、はい?」
 まだ行ってなかったのか、とは言わない。まさか死刑宣告か?と嫌な予感を胸に会長を振り返る。
 そこには意地悪に笑う会長の姿があった。
「悪いとは言わないがな、仕事が遅れるのは困る」
 とんとんと自分の首筋を指す。
 はっとして右手で押さえると、さらに唇の端を上げて生徒会室を出ていった。



 未だ鈍い熱を持つそこ。
 押さえた右手にまでじんわりと熱が伝わってくるような気がした。
君に残す痕
(081015)



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