保健室とは違った、独特な薬品の臭い。
快適とも不快ともいえない、微妙な湿度。
座っている机の冷たさ。
間近に感じる自分以外の体温。
遠くで聞こえるのは昼休みを楽しむ声。
私はといえば、特別教室群の不気味な静寂に包まれながら、目の前にできた影に目を閉じた。
程なくして目蓋から離れる気配がして、やや遅れて目を開けた。
思っていたより近い距離に顔があって、吸おうと思っていた息を止めた。
「ち、」
かい、と最後まで言う前に、頬にキスが落ちてきた。
顔の左側にちくちくと当たる白石の髪の毛がくすぐったい。
すぐ前に耳が見えたから息でも吹き掛けてやろうと思ったら、タイミング良く顔が離れていった。
残念。
肩透かしもいいところだ。
「し、」
らいし、と言おうと思っていた言葉も途中で遮られてしまった。
ちょっと抗議をしてやろうと思っていた口も、文字通り口を塞がれる。
またか。
そう思いつつも、目を閉じる。
至近距離に迫る顔に耐えられるような神経は持ち合わせていないので。
こう何回も遮られると、わざとやってるのかと思いたくなる。
そんなことないと思うけど。
まったく無駄のない奴め、と内心毒づいた。
まあ唯一、最大の無駄と言えば、ここにいる時間だと思うけど。
気まぐれに空いている左手で制服の後ろの方を引っ張ってみたら、右手を掴む白石の左手の力が強くなった。
とてもよくできた男だと思う。
この白石蔵ノ介という男は。
顔よし、頭よし、人望もある。
ミスターパーフェクト?
随分上手いことをいう。
完全無欠な人間なんているもんかと思いつつ白石を見てみても、実際非の打ちどころがないのだから仕方ない。
…まあ強いて言うならば。
ギャグが面白い面白くないを通り越してシュールな点、だろうか。
小春がそんなことを言っていた気がする。
他人にギャグの面白さなんて求めない私にしてみれば、とりあえず非はない、と思う。
それと、女の子の噂によると白石というのはなかなか堅実な人間らしい。
部活やらなんやら、確かに思い返せば思い当たる節がないわけじゃない。
若いんだから彼女くらい作ればいいのに。
白石なんだからそんなに難しくはないでしょうよ。
…なんておばさんみたいなことを思ったりするけど。
まあなんにせよ、総じて私には関係ない。
「、ん?」
掴んだ制服をちょいちょいと引っ張るとあっさりと離してくれた。
ほう、と一息。
「休憩ー」
そう言って首を思いっきり下に動かした。
ぽきりと軽い関節の音がした。
浅く机に座る私と向かい合わせになるように、正面にポジショニングというのは白石の定番となりつつある。
目線の高さはほぼ同じだが、若干白石の方が高い。
微妙に上を向いたままというのも体勢的につらいものがある。
せめて背中が壁にでもついていれば楽なんだけど。
そんなことを考えながら、ついでにそのまま逆の方向、上に動かした。
こっちは音はしなかった。
「ひっ!?」
首を下から上へ、何かが走った。
顔を元の位置に戻し、身震いをした私に目の前の男が笑う。
一本だけ立てられた白石の指に何をされたのか理解した。
「や、つい、な」
「気持ち悪い!」
「いった!」
奇声を発してしまったのもあって、足を蹴ってやった。
脛はあかんやろ!とか言ってるけど無視。
知りません。
白石が悪い。
広く完璧だと思われているであろう白石が、こんな風に自分に構っている姿を見ていると、優越感からなのか酷く可愛い生き物に見えてくる。
「、」
名前を呼ぶ声を一つとっても。
「な、堪忍?」
戯れに、顎のあたりに添えられている指に歯を立ててみた。
ついでに舐める、というおまけつきで。
白石は一瞬、驚いたように目を見開いたけど、えろいわ、と言ってすぐに笑顔を浮かべた。
指なんて舐めてもおいしいわけがないんだけど、やっぱりおいしくはなかった。
特に味なんてしなかったというのが正しいけれど。
つまらなくなって噛んでいた白石の親指を開放する。
「おいしくなー」
「指がうまいわけないやろ」
「でも、白石の指っておいしそうだよね。綺麗だし」
「…なん、ってそういう趣味やったん?」
俺んこと、食わんといてや?
唇をなぞりながらそんなことを言うから、誰が食うかばーか、と返した。
それはそれでなんか残念やなあ、と白石は苦笑するのみ。
会話が途切れたので、す、と視線を外すと、白いものが視界に入った。
もしかして、と思い、そのまま視線を滑らせると、包帯が見えた。
そうか、こっちは左手か。
頭に浮かんだ、騒がしい彼の後輩に思わず笑いが漏れた。
あの子はまだ信じているのだろうか。
この左手を。
「なんや、どないしたん?」
「毒手、だっけ?」
「ん?」
「左手」
目線で左手を示すと、添えられていた左手が離れていく。
「ああ、これな」
白石も自分の左手を見る。
白い包帯に包まれたそれ。
汚れているところを見たことがないから、こまめに換えられているのだろう。
その下に何があるのかなんて知らない。
もしかしたら何もないのかもしれないけれど。
私が知るわけもない。
知ってることといえば、毒手、つまり毒の手らしいということだけだ。
あまりにも有名な話だけど。
「舐めちゃった。ね、私、死んじゃうかも」
いかにも困ったという風に訴えてみる。
毒手でしょ?
死んじゃうんでしょ?
左手が自分に触るたびに、薄ぼんやりと思うようになったことだった。
「…あかん」
勢いよく引っ張られて机から降ろされた。
至近距離で目が合う。
「あかんよ、。勝手におらなくなるなんて許さへん」
細めた眼が存外に鋭くて、思わず自分を支えるのに白石の胸に突いた手が固まる。
「がおらんかったら、俺、生きていけへんもん。なあ?責任はきっちり、取ってもらわんと」
毒手に毒されて死ぬだなんてどこのメルヘンだ。
そもそも、こいつの左手に毒があるだなんて確証もないのに。
でも、白石の左手やっぱり毒手なんじゃないかな。
きっと、手遅れ程度には毒されてると思うんだ。
媚薬の苦さ
(100415)