――体は眠気を訴えるけれど、どうにも眠る気にならない。



 春は気持ちが浮ついて、いけない。
 と、盛りもすぎてはらはらと花弁を散らす桜を眺めながら、三郎は思った。
 確かに春の夜は気持ちがよくて眠気を誘うのだが、三郎はそわそわとした気持ちに邪魔されて、大人しく目を閉じることができなかった。
 何度か寝返りを繰り返して寝る努力をしてみたものの、一向に意識が落ちる気配はなく、無駄に終わった。同室の眠りを妨げてはと、仕方なく部屋を抜け出して夜風に当たるという手段に出たのだったが、これでも眠気が訪れる気配はないのだった。
 徹夜か、と三郎が半ば投げやりに夜空に浮かぶ月に視線を移した。今夜は月の光が明るい。
 忍務には不向きな夜であるが、ゆったりと夜更かしをするにはうってつけな夜だ。
 散りゆく桜を月の光で眺めるということはなかなか乙なものだと思いつつも、明日の授業のことを考えると、無益な徹夜は避けたい三郎は今すぐにでも寝てしまいたいと思っていた。

 ***

 不意に、三郎の背後の空気の流れが変わった。
 敵襲、という可能性は無きにしも非ずだが、あまりにも静かな気配に、三郎は不審に思ってゆっくりと振り返った。白い寝間着と寝間着から伸びる足が見えた。
 内心どきりとした三郎であったが、何事もなかったかのように視線を上にずらした。
「こんばんは、」
 見知った顔であった。むしろ馴染みと言った方が妥当だろう。
「さぶろう」
 三郎と目があったその人は、ゆるりと微笑んだ。
「……先輩」
 三郎が溜め息とともに名前を零すと、は、うん、と頷いた。
「お化けかと思った?」
「……そんなわけ、」
「まあ、いいけど」
 は三郎の真横に進みながら彼の言葉を遮ると、腕を組んで桜を見下ろした。
 言葉を遮られた三郎は、むっとしながらの顔を下から凝視していたが、再び目線を寄こす気配がないのを悟ると、彼女に倣って桜に目を向けた。
 二人はしばらく無言で舞い散る桃色の花弁を眺めた。
 緩い夜風に前髪が揺れる。
 今夜は鍛練する者がいないのか、聞こえる音といえば、微かに葉が擦れる音くらいであった。

 ***

 ――どうしたものか。
 三郎は溜め息を吐きたくなった。
 三郎ももそこまで口数の多い方ではないが、この空間でずっと無言というのも居たたまれない。何かを試されているのか、と普段の彼女とのやりとりを思い出して邪推するも、この状況を打開する最善の策というものが全く浮かばなかった。
「……先輩」
「ん」
「お、お座りになられたら、いかがですか」
 ――ど、どもった!
 努めて自然に言ったつもりであったが、変に緊張をしたせいか、声に動揺が表れてしまった。
 ああまたこの人にからかわれるのか、と内心肩を落とした。
 の前で醜態をさらそうものなら、三郎がぐったりするまでつつくのが彼女の常であった。本人に言わせれば、可愛い後輩を可愛がっているだけのようだが、これが三郎に伝わっているかといえば、微妙なところである。
 三郎の心中は葛藤やら後悔やらで大荒れの嵐であったが、借りた顔に浮かべているのは至ってだるそうな雷蔵の表情であった。
「そおねえ」
 三郎の心配を裏切って、は気にした様子もなく曖昧な返事をしながら、彼の言った通りにその場に腰を下ろした。
 ただし、三郎の肩に寄り掛かるというおまけつきであったが。
「ッ、」
 三郎は喉まで出かかった声をなんとか飲みこんだ。そして、悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたいと思った。
「せ、せんぱい?」
「起きてるよ」
 いまいち話が噛み合っていない。寝ているか否かを聞いたわけではないのだが、どうしたものか、と再び三郎は頭をひねる。
 が触れているところがじわじわと温かくなってきた。
 ――面倒な人だ。
 三郎は横目でを見下ろした。すぐそばにのつむじが見える。
 は三郎の二の腕に寄りかかっているため、腕を動かすどころか体を動かすこともできない。そして、先ほどから感じている微妙な違和感に、三郎は段々ともやもやし始めた。
 それを振り払うべく、何か話題はないかと空を見上げた。
「……そういえば。なんでまた、こんなところに?」
 こんなところ、というのも、ここは忍たま長屋の屋根の上。
 お互いの敷地を行き来することは原則的に禁止されているため、本来くのいち教室の人間であるがいるところではない。
 こんな夜更けに男女が二人で並んでいるのが見つかった日にはどんな目に合うか、想像に難くない。
「さんぽ」
「、はい?」
「屋根の上を散歩してたらね、見知った顔が見えたものだから」
 三郎は横目での服装を確認した。どう見ても、白い寝間着である。
 不用心にもほどがあるだろう。
「そんな格好で?」
 三郎が呆れたようにそう言うと、は三郎を振り返って緩く笑った。
「そんな格好で」
 ここにきて目が合ったことに、三郎は少なからず動揺をした。
 とは言っても、を前にして三郎が動揺しなかったことなど一度もないのだが。
 は上体を捻ると三郎の横に手をついた。
「ちょっと水を飲んだら寝ようと思ったんだけどね?そのまま戻るのももったいない気がしてね?」
 一言発する度に、三郎の顔に自分の顔を近付けていく。
「は、はあ」
 ――相変わらず、何を言っているんだこの人は。
 ぐいぐいと迫ってくるを相手にそう思いながらも、三郎がようやく間抜けな返事をした時には、は膝立ちになって彼の肩に手を置いていた。
「ところで」
 三郎はの視線から逃げるように顔を逸らした。
「雷蔵だったらどうしたんですか」
「……その可能性は考えてなかったわ」
 顎のあたりに添えられたの手の冷たさに、肩が跳ねた。
「でも、」
 逸らした顔を無理矢理の方に向けさせられた。勢いよく動かされたため、三郎は痛みで顔をしかめた。
 対照的に、目が合った彼女は満足そうに笑った。
「不破くんじゃなくて、三郎な気が、したんだよ」
 言うと同時に、は三郎の肩に体重をかけた。三郎はといえば、特に抵抗もせずにそのまま屋根へと倒れた。頭を打たないように受け身はしっかりとっていたが。
 さらりと、の束ねていない髪が滑り落ちて、三郎の顔にかかった。
「いや……希望、かな……」
 は三郎にかかった自分の髪を払いながら、ほとんど独り言のように呟いた。
「酔って、いらっしゃるので?」
 実際はそうでもないのだが、存外に冷静な声が出たな、と三郎は思った。
 そして、先ほど感じた違和感はこれかもしれない、とも思った。
 ――まさに、猫、だな。
 覆い被さるの表情は影になって見えなかった。
「ふふ、そうね、そうかもね……ふ、まあね、似たようなものだよ」
 しかし、笑い声からがどんな表情をしているのか、三郎には何となく予想がついた。
 ちゅ、と濡れた音を立てて、の唇が三郎の額から離れた。
 変装越しだとどうしても感覚が鈍ってしまう。三郎は、惜しいな、と思うと同時に、それをわかっていてやっているであろうを憎らしく思うのであった。
「今夜は、気分がいいんだ」
 三郎はの髪の隙間から月を見た。



 今夜は、満月でもあった。
桜乱
(120504)