「……はち、や?」
「はい、鉢屋三郎です」
 先輩は縁側に座ってうたた寝をしていたようだ。私の気配に気が付いて目を開けると、うっすらと笑った。先輩の視線が優しくて、胸が温かくなる。
「寝てらしたんですか」
「ん……すこし」
「すみません、起こしてしまいました」
 寄り掛かっていた柱から体を起こすと、いいよ、と言ってぐっと体を伸ばした。
「……珍しいね?どうし、」
「せんぱい」
 先輩の言葉を遮って、そばに膝をついた。先輩は私の行動に少し驚いたようだった。
 そりゃそうだ。私が先輩にこんな行動をとることはない。そもそも、先輩に近付くこと自体ないのだから。
「、……なあに」
 しかし、すぐにいつもの表情を浮かべた。
 ――惜しい、なあ。
 もう少し見ていたかった。じっと先輩を見つめていると、私の顔に手を伸ばしてきた。いつもなら避けてしまうところだが、そのまま甘受する。
 素顔の上に施した雷蔵の顔の上を先輩の指が滑る。滑る感覚は感じる事ができるが、先輩の体温を感じることはできない。もどかしい。
 顔を触られることは好きではない。いや、はっきり言って嫌いなのだけど。そう簡単に落ちるものではないが、変装したものが取れてしまいそうな気がして。
 先輩の指が頬から耳の後ろに移動した。ちょうど地肌と変装の境目、そこを引っ掻くように擦られた。
 ああ、雷蔵の変装が剥がれてしまう。そう思いながらも、地肌に触れる先輩の指が気持ちよくて、目蓋が自然に降りてくる。
 動いていた先輩の手がぴたりと止まった。離れていく体温に目を開けた。
 視界に入った離れていく先輩の手を、掴んで私の方に引き寄せた。目が合った先輩は怪訝そうな顔をしていた。
 私に向けられる表情では滅多に見られないものを見ることができて、思わずくすりと笑った。
 先輩は途端に眉間に皺を寄せる。
 怒らせて、しまったのだろうか。
「……本当、どうしたの」
 怒っている、というより、単純に訝しんでいるようだった。
「何、企んでるの?」
「企む?」
 いつも憎まれ口ばかり叩いていたせいだろう。私が何か悪戯をするのではないかと疑っている。
 余りの自分の信用のなさに落ち込む。雷蔵に言えば、普段の行いだよ、と諭されそうな気もするが。でも。
「何も……企んでなんか」
 下心は十分にあるけれど。
「いつもの鉢屋らしくないね」
「……いつもの私の方がお好みなのですか?」
「お好みって……」
 先輩は呆れたように肩から力を抜いた。
 呆れるようなことを言っただろうか。変装を心得ている私にしてみれば、それくらいのことは大して難しいことではない。少し、苦しくなるけれど。
 でも、先輩がいつもの私の方がお好みと言うのなら、いつもの私に戻ろう。
「別に、私は何でもいいんだけど」
 私のことなんてどうでもいい、自分には関係ない。
 先輩の突き放した言い方に少し胸が痛くなった。先輩の顔を見続けることができなくなって、お腹の、ちょうど腰紐の結び目を見つめた。
 しかし、ふっと私の前髪を揺らすものに再び顔を上げることになった。
「嫌?」
 そう言って、掴まれていない方の手で、私の前髪を梳いた。
「いえ……」
 まさか、こんなに優しく触れてもらえるとは思わなかった。
 沈んでいた気分が良くなって、先輩の膝の上に上半身を乗せた。
 ――払い落とされるだろうか。
 調子に乗りすぎたか、という心配とは裏腹に、先輩は私の頭を撫でてくれた。いつも辛辣な言葉を私に向ける先輩とは思えない。
 らしくないと言えば先輩の方がずっとらしくない。勿論、悲しい思いをしたいわけではないけれど。
 私が知る先輩と言えば、傷を作った後、抉るだけでは飽き足らず、塩を塗りこんで行くような人だった。だから、こんなに簡単に私への態度が軟化するとは思わなかった。
 ぐりぐりと先輩のお腹に頭を押し付けた。苦しい、と肩を叩かれたが、もう少しだけ、と言うと頭を撫でられた。
 甘すぎて溶けてしまいそうだ。
「でも」
 先輩の柔らかい太股を堪能し、匂いを堪能していると、先輩がぽつりと呟いた。
 呟いた言葉に顔を上げて先輩を見ると、困ったように苦笑をしていた。今日は、珍しいものばかりを見る。
「こんな鉢屋だと、ついつい毒気を抜かれてしまうね」
 先輩の悪意のこもった辛辣な言葉は、中々堪える。勿論、私を傷付けるために吐いているから当然なんだろうけど。
「いつもみたいに生意気のひとつでも言おうものなら、泣かせてやろうと思うんだけど……これじゃあねえ」
 売り言葉に買い言葉なのか、あれは。気を付けよう。
 辛辣な言葉に喜べる被虐趣味は、私にはない。こうやって甘く可愛がられている方がずっといい。
先輩、先輩。私、いい子にするのでいじめないでくださいね」
「……鉢屋がなんか可愛いこと言ってるー」
「可愛いのは、」
「嫌いじゃないよ」
 可愛いものは嫌いじゃない。
 先輩はもう一度繰り返すと、私の首の後ろに腕を回して、少し自分の方に引き寄せた。
「でも、たまにでいいよ。こういうの」
「何故です?」
 綺麗な指で私の頬を摘むと、そのまま横に引っ張った。先輩、地味に痛いんですが。
「こうね、いじめ甲斐がないじゃないの」
 限界まで引っ張ると、指から離れて皮膚が元に戻った。引っ張られた場所がヒリヒリする。うっすら涙が出てきた。変装越しとはいえ、酷いことをする。
 それを見て先輩は口角を上げると、引っ張られた場所をつついた。
「ねえ、三郎?」
 急に呼ばれた名前に体が一瞬固まった。
 ――わたしの、なま、え。
 じわじわと呼ばれた事実を実感し始めると、自然に頭が下がってくる。顔が、熱い。
 先輩はといえば、それに気付いているのだろう、しつこく私の頬をつついている。鬱陶しいとは勿論思わなかったが、少しむっとして、お腹に額を押し付けて無言の抗議をした。
 頭を伝って僅かな振動を感じるのは、きっと先輩が笑っているからなんだろう。
その甘い指先で
(120102)